Aサイド.4
 善内大学、循環科学研究科。
 卒論研究の実験も半ばといった時期にもかかわらず、研究棟内に人影は見当たらない。
 入学試験なんて建前で、金のためにほぼ全ての受験者を入学させ、後は途中で退学したりしないよう、簡単な授業だけを繰り返しているような大学だ。こんな状況も当然だろう。
 国枝忠泰くにえだただやすは一人、真面目にこなしている実験結果をまとめると、席を立つ。
 どうせ、国枝のあとに研究室を使う人間などいない。国枝は研究室の鍵を閉めると、その鍵を返す為に、自分の所属するゼミの教授の研究室に向かう事にした。
 そんな大学ならむしろ行かない方がましと言われるような偏差値ランクの善内大学だったが、国枝はこの大学に入って本当に良かったと思っていた。
 何故なら、今から向かう研究室の主、国枝の所属するゼミの主催者、淀美成幸よどみしげゆき教授に出会うことができたからだ。
 淀美教授は、額から頭頂部にかけて禿げ上がり側頭部の白髪は爆発している。映画や漫画に出てくる博士そのものといった見た目から教授ではなく淀美“博士”と呼ばれていた。
 国枝は真面目な生徒ではなかった。できそこないの高校からいけるところが“中学レベルの善内大学”しかなかっただけだ。
 しかし、淀美博士の授業を受けて、国枝は学ぶ喜びを知った。
 苦労人らしいこの高齢の教授は、まずはじめに学ぶ喜びを説き、科学の素晴らしさを伝え、できそこないの国枝が理解するまで懇切丁寧に教え、孫ほど歳の離れた国枝の意見も真摯に受け止め、議論してくれた。
 淀美博士はよく『僕はね、大した発見をすることはできなかったけど、僕の教え子である君たちが世紀の大発見をしてくれれば僕の科学者人生も意味のあるものだと胸を張って死ねるよ』と言っていた。国枝はそんな寂しい事を言わないでほしいと思った。死ぬとか縁起でもないと。
 すると、淀美博士はありがとうと、笑ってから、真面目な顔で忠告するのだった。
 『国枝君、その気持ちを忘れてはいけないよ。科学は時に、倫理を狂わせる。君は科学者の前に一人の人間なんだ。人の道を踏み外してはいけないよ』
 それは淀美博士の持論。これから先、どんどん科学は発展するだろう。人はまるで神になったかのようにいろいろなことが可能になる。でもだからこそ、倫理を守らねばならない。最前線に立つ科学者が人の道を外してしまえば大きな悲劇を生むだけだ。
 それは優しく真面目な博士らしい持論だった。淀美博士は国枝にとって理想の科学者の姿であり、尊敬できる師であった。
 研究棟内の階段を降りる国枝は肩を震わせる。十月も過ぎ、秋が終わりかけているせいもあるが、この研究棟は日当たりが悪く余計に寒い。教授個人の研究室は棟の地下にあるのでなおさらだ。淀美博士の研究室は、その人柄の様に暖かい。少し暖をとらせてもらおう。卒論研究の中間結果をみてもらって意見も欲しい。
 そんなことを考えながら国枝が、淀美博士の研究室の前まで来ると、中から今まで聞いた事もない淀美博士の罵声が響いた。
 「君は私をばかにしているのか!」
 温厚な博士の怒声に国枝は思わず、ドアノブを回す手を止め、聞き耳を立てる。
 来客があったのだろう。淀美博士と何者かが話している。
 「馬鹿にしてなどいませんよ。貴方をかっているのです。だから貴方を買わせていただきたい」
 淀美博士と話す相手は何者なのだろうか。男性の声だ。落ち着いてはいるが壊れたテープレコーダーの様なひどく音程が不安定な、聞くものの精神を逆撫でる声をしている。
 「大学側には話はつけてあります。貴方もこんなところで頭空っぽの学生に教えているより、自身の研究に打ち込んだほうが幸せでしょう」
 男の言葉に、国枝は歯を噛み締めたが、残念ながらそれは事実だと国枝自身が理解していた。
 「勝手な事をするな!僕は教え子を放って行くわけにはいかん!」
 それでも淀美博士から出てきた言葉に国枝は目頭が熱くなる。今年、真面目にゼミに出ているのは国枝だけ。ならば博士の後押しをするのは自分の役目だ。
 国枝が覚悟を決めた瞬間、再びドアノブを握る手が動きを止めることになる。
 何故なら、ドアの向こうで博士と対峙する男の声が、その内容が、あまりにもおぞましかったからだ。
 「そうやって、大学に居座って若い才能を摘むためですか?」
 なんだそれは?どうしたらそんな話になるのか。男の発想が理解できず、国枝は怒りが湧くよりもただただ気持ち悪かった。同じ人間とは思えない。
 ドアの向こうで淀美博士は怒りに震えているに違いない。何も口にしない博士に畳み掛けるように男は不協和音を鳴らす。
 「貴方のことは調べましたよ。貴方は若いときある発見をした。しかし、その発見を形にするためにしなければならない実験はひどく危険なものだった。許可が降りるはずがなかった。それでも諦め切れなかった貴方は秘密裏に実験の準備を進めるが、協力者である助手の学生が良心の呵責に耐えかねて大学側に密告。まだ準備段階だったために、問題が公にされることはありませんでしたが、実験計画は凍結され、貴方は科学者の世界で表舞台に立つ事はできなくなる」
 国枝にとっては初めて聞く話だ。
 博士の心情を慮るように一拍置いて、男は続ける。
 「科学の世界で貴方は落伍者になった。貴方の論文が世に出ることはない。悔しかったでしょう。憎くて憎くて仕方がないはずだ。裏切った例の学生はもとより学生全てが憎くて憎くて憎くてさぁ。一度私も貴方の講義を拝聴させて頂いたのですがね。『これから先、どんどん科学は発展するだろう。人はまるで神になったかのようにいろいろなことが可能になる。でもだからこそ、倫理を守らねばならない。最前線に立つ科学者が人の道を外してしまえば大きな悲劇を生むだけ』でしたっけ?あれは呪いですよね。貴方は自身の反省からあの言葉を口にしているわけじゃない。そう教えることで、学生を倫理の檻に閉じ込め、貴方ができなかったことをこれから先、学生たちができないようにするためだ。いや、ご自身の発見を他の誰かに形にされたくないからだ。発表されたくないからだ。先を越されたくないからだ。手柄を横取りされたくないからだ」
 酷い決めつけだ。鬼の首を取ったように騒ぎ立てる男の声は、しかし、国枝を不安にさせた。男の音程が不規則な声が途切れないのはもちろん、その原因は淀美博士の声が一つも聞こえないためだ。
 「教授……何とか言ってやってくださいよ」
 国枝はドアの前で小さく呟く。
 見えないドアの向こうからは男の声だけが響く。
 「貴方の野心は淀んで燻っちゃいるが消えてはいない。その証拠に、あなたは例の研究を忘れられずに、給料の大半を貯金に回している」
 どういうことだ?国枝は理解に追いつけない。博士と男にだけわかるスピードで話が進んでいる。
 「貯金は順調ですか?予定額は溜まりそうですか?“人体実験”はどれ位の懲役になるんでしょうか?“免罪符”を買うにはいくらかかるんでしょうね。貴方が生きてる間、いや、実験ができる間に間に合いそうですか?科学者なんだ、もちろんわかりますよね」
 “免罪符”――金によって殺人者すら無罪にできる。刑事罰の換金法。それを使えば、倫理を無視した非道な実験も罪に問われはしないだろう。しかし、罪に問われなければなにをしてもいいというのか。そういうことじゃないだろう?道徳とは、人の道とは刑罰に問われない。そんなことではないはずだ。
 「淀美博士!我々が貴方の罪を買いましょう!罪は私が請け負います。貴方は再び表舞台に立つ!もちろん世紀の大発見!その栄光をひっさげて!方法は間違っていても形になれば皆、貴方を絶賛する!貴方は誰からも認められる存在になる!」
 悪魔の誘惑だ!国枝は大仰な男の台詞に、逆に冷静さを取り戻す。博士は今、悪魔を前に問われている。魂を売ってその欲望を叶えるか否か。
 博士が何も言わないのは、心が揺れているからだ。男が言ったように、淀美博士が学生を憎む気持ちを持っていることも、功名心を捨て去れない事も本当かもしれない。全てではなくてもそういう気持ちもあるだろう。それでも全てではない。
 博士が人の道を踏み外そうとしているなら引き戻してやればいい。
 それが、腐っていた自分に学ぶ喜びを、科学者としての姿を教えてくれた淀美博士にできる恩返しだ。国枝は覚悟を決め、ドアを勢いよく開く。
 「淀美博士っ!」
 国枝はまるで忘れてしまったかのように続きを口にする事ができなかった。
 研究室の中に淀美博士の姿は無かった。
 突然の闖入者である国枝を二対の瞳、計四つの眼球が見つめている。
 「淀美博士、彼は?」
 音程が不安定な声で見慣れない男が尋ねる。
 淀美博士だったものが笑う。
 人を安心させる温かい笑顔から安心させる部分を抜き取った笑顔。
 「あぁ、彼は優秀な実験体モルモットですよ」
HOME