Aサイド.2
 自分がコインパーキングで指示された車の助手席の窓をノックすると、中から「おう」と言う声が聞こえた。イメージとしてはどちらかといえば「あぁ?」に近い返事ではあったけれども、それを許可と判断して自分は助手席のドアを開ける。
 「本日から刑事“独”課、捜査員補佐として配属されました。つづりニケ警部補であります。ご迷惑をおかけすると思いますが、ご指導ご鞭撻の方よろしくお願い致します」
 自分が挨拶をすると、運転席に座る男性捜査員は恥ずかしいものを見たように苦笑いをこぼして、乗り込むように顎で示す。
 「失礼します」
 自分が助手席に座り、シートベルトをつけていると「俺が教育係ねぇ……」と返事を求めない呟きが聞こえた。
 運転席の方を見ると、窓の方を見ていた男性捜査員が、自分に向き直る。
 「エリート殿のキャリアはいくつですかな?」
 「中層特二級です
 自分の答えに、男性捜査員は笑顔のまま目だけを驚いたように丸くした。
 なぜ、急にキャリアを聞いたのか目で問うと男性捜査員は嫌らしく破顔する。
 「もし、お前が将来、俺の上司になるようなら媚でも売っておこうと思ってな。にしても“特ニ”ね――」
 言って、探るような視線を自分に送ってくる男性捜査員の目は先程からずっと変わらない。
 顔の表情や、それこそ目の形を変えていても瞳は何も変わらない。
 警察学校の資料で目にした事のある、光を通さない真っ黒な瞳。
 誰も信じてない瞳――人とは別のものになってしまった瞳。
 少し気まずくなるぐらい、その瞳をこちらに向けて、不意に鼻で笑う。
 「――俺と同じだ。それなら他とは違う“特ニ”の仕事ってのをきっちり教えてやらないとな」
 「よろしくお願い致します」
 頭を下げる自分に、そういうのいいからといった風に手を振って、男性捜査員は車のキーを回す。
 「俺の名前は東大ひがしだい東大とうだいじゃねぇぞ」
 わざとらしく笑うとクラッチを踏んでエンジンをかける。
 「先輩でも、上官でも……東大とうだい以外なら好きに呼んでくれ。っと、それじゃあ、まずは巡回にでも行きますか」
 コインパーキングのバーを上げ、車が街の中に出て行く。
 のんびりとしたスピードで車は左右一車線ずつのさほど広くない街道を進んでいく。
 窓から見える景色は、街路樹のイチョウが葉を黄色く染めているのは同じでも、左右で全く異なっている。
 助手席側の窓から見える景色はブランド物の店が並ぶ、優雅な街並み。道行く人もスーツにコートを羽織った姿が多く見られる。
 運転席側の窓から見える景色は、同じく商店が並ぶが、向かいに比べるとどこかみすぼらしい街並み。空き店舗も点在し、そのシャッターの前にはホームレスが座り込んでいる。
 地図とは違う区域を分ける道。この道は貧富の差で街を分け、断つ線。
 格差、階級、貧富、優劣、世界中を走り、分かつ境界線。こういう道を走っていると、その境界線上を走っているような気分になる。
 窓から見える街並みを背景に、東大先輩を見る。
 自分より十は上だろうか、短く刈り込まれた髪に無精ひげ、ノーネクタイに使い込まれた古いスーツ。“独”課には型破りな刑事が多いと聞いていたが、まさに型破りな刑事の見本といった体だ。矛盾しているが的は得ていると思う。
 あくまで外見だけだが。
 中身なんて誰にもわからない。自身にすらもわからない。
 自分の視線に気付いたのか東大先輩は目だけをちらりとこちらに向ける。
 「で?なんだって“特ニ”になんかなったんだ?」
 質問の真意がわからず、首を傾げていると、東大先輩は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
 「階級別選抜試験で、“特ニ”と“一級”の差は無いに等しい。“特ニ”とれるなら“一級”だって余裕だろう。“一級”からは管理職。危険な目に合う事も無いし、幹部候補にだってなれる。片や“特ニ”がなれるのは独立捜査官のみ。通称“ハイエナ”の嫌われ者だ。普通の神経なら“一級”にいく」
 「自分は至らなかっただけですよ」
 自分の答えに、そもそも期待していなかったのか東大先輩は鼻を鳴らす。
 しばらくお互い無言でいたが、信号待ちで車が停止したのをきっかけに自分からも訊いてみることにした。
 「東大先輩はどうして“特ニ”をとって独立捜査官に?」
 東大先輩はゆっくりと煙を吐く。
 紫煙が車内に満ちていく。
 「俺は……」
 東大先輩の声を遮るように、窓の外から悲鳴が飛び込んでくる。
 見ると車の左前方の歩道を男が駆けてくる。男の手には赤い液体が光るナイフ。
 駆けてくる男の後方には倒れる男性と、悲鳴の主だろう女性が隣で驚愕のまま叫び続けているのが見える。
 犯人がこのままこちらに向かってくれば、助手席の横を通る事になる。
 自分がシートベルトを外し、腰を上げた瞬間、バランスを崩して肩から座席の方に倒れてしまう。
 何が起こったのかわからず、前を見ると、ちょうど青に変わる信号の下を通り過ぎるところだった。
 どうやら車が発進する時の揺れで強制的に座席に戻されたらしい。
 後を見ると、悲鳴を上げ続けている女性の姿が小さくなってく。
 「先輩、犯人が」
 慌てて呼びかける自分を見て、東大先輩はつまらなそうに煙を吐く。
 「あんなもん、下層警官にでも任せときゃいい。俺達の仕事じゃない」
 「ですが……今なら現行犯逮捕できます。それに刺された男性の救命措置も」
 「刺された方は、ナイフについてた血の量、倒れ方。筋肉の痙攣具合から特に問題はない。あのまま丸一日放置しといても死にゃしないし、救急車ぐらい誰か呼ぶだろ。隣の女は役にたたなさそうだけどな」
 それぐらいわかれよと言わんばかりに、こちらを見ずに東大先輩は乾いた笑いを漏らす。
 フロントガラスに映りこんだ自分の不満そうな顔を、同じく映りこんだ東大先輩の真っ黒な目が捕らえる。
 「ニケちゃんさぁ、無駄な正義感なんて捨てようぜ?金にならないことはやめようよ。ただでさえ俺らが必死こいて捕まえても“免罪符”で無駄になっちゃうんだからさ。仕事は選ぼう。今のなんて、無作為窃盗の示威傷害。下手すりゃ生存強盗で致死傷動機無しで一〜三年、“免罪符”だと?」
 「“罪罰換金法”を適用するのであれば、前者で600〜1500万。後者で300〜900万ですね」
 「で、さっきの犯人。払えると思うか?」
 「無理でしょうね」
 先程の犯人を思い出す。格好からおそらくスラム街の住人だろう。金は持って無さそうだし、持っているならそもそも強盗などしない。
 「つまり、金にならない」
 言い切って東大先輩はダッシュボードの灰皿に吸殻を捨てる。
 明確に規定されているわけではないが、下層キャリアは主に郊外区いわゆる貧困区の事件、中層キャリアは主に中心区の事件を扱う。言い換えてしまえば下層は貧困層の警察、中層キャリアは金持ちのための警察といえる。そのために中層キャリアは、どこか金にならない仕事はしないという風潮がある。
 しかし、ここまで言い切る人を今まで見たことは無い。
 少なくとも、普通、体面上は取り繕う。正義を口にする。
 「中層特ニ級、独立捜査官の特徴は?」
 次の煙草に火をつけながら東大先輩は自分に質問する。
 「中層特ニ級、独立捜査官の特徴は所轄や捜査本部に属す事無く、情報の開示と協力の要請が可能で、縛られること無く自由に捜査ができることです」
 自分の答えに東大先輩は笑いを噛み殺すように煙草を吸う。
 「優等生な事しか答えないってのは、それ以外を隠そうとしてるように見えるぜ?確かに、究極的な個人プレーが認められてるってのは美味しいとこだが、もっと美味しいところがあるだろう?」
 東大先輩の瞳が初めて笑う。黒く濁って暗く光る。
 「臨時収入だよ」
 その声に反応するように車内に積まれた無線機から警察無線が飛び込んでくる。
 『中心四区にて殺人事件発生。応援を求む。場所は四区南3‐5‐1藪沢邸にて藪沢製薬社長、藪沢清次、妻の頼子、次男ひかるの惨殺体を発見。死体温度から犯人は未だ付近に潜伏している可能性あり。至急の応援を求む。繰り返す』
 無線を聞いた瞬間、東大先輩は車載スイッチを押してサイレンを鳴らし、急加速。
 一般車両が回避行動をとる前に、赤信号を物凄い勢いでUターンする。
 遠心力によってドアに押し付けられながら自分は運転席を見上げる。
 「犯人は名前の挙がらなかった長男、原因は家庭環境。締め付けられて育ってきた長男がついに爆発。家族を滅多刺しか、何度も殴って撲殺。現在逃亡中、突発的だが、何度も殺すことを妄想してきただろう。今日の日が来る事は薄々感じていて、いざという時の手段も確保している」
 プロファイリングなのか、まるで、見てきたかのように東大先輩は推測を語る。
 「親族殺害に連続致死傷の準計画逃亡犯、それに相続計画もつけよう、遺産独占でもいいな。刑期は70〜90、なんにしても2億はかてぇ」
 推測か希望か。結果をでっち上げようとしているようにすら見える。
 勝った気でいるギャンブル狂いのような笑顔で、東大先輩は狂声を上げる。
 「独立捜査官第四項、独立捜査官が逮捕した被疑者が“罪罰換金法”の適用を申請した場合、その1パーセントを捜査官の報酬とする。つまり、こいつは200万のヤマってわけだ!」
 サイレンを鳴らしていても事故を起こすんじゃないかと思うスピードで景色が流れていく。
 東大先輩の豹変っぷりに辟易しながらも体勢を立て直してシートベルトを締めなおす。
 独立捜査官は職務の変更が無く、昇給もない。自由な捜査を行うことができるが退職までずっと現場に立たなければならない。
 そして最も特徴的なのは“罪罰換金法”適用時にその一パーセントを報酬としてもらえる事だ。したがって捕まえれば捕まえるほど、そして無罪になればなるほど報酬が上がる。
 自由な捜査権で報酬を求めて様々な現場に首を突っ込んでくる独立捜査官は、当然のことながら他の捜査官から忌み嫌われる。
 ついたあだ名が“ハイエナ”だ。
 品が無く、無遠慮に現場を荒らして死体を漁る。
 それでいて狡賢く成果と利益をかっさらう。
 組織の嫌われ者で孤独な存在。あまり独立捜査官になりたがるものはいない。
 独立捜査官の条件もきわめて狭く、中層特ニ級にしか独立捜査官にはなることができない。
 中層にしか存在しない“特ニ級”。
 それは“一級”の合格点をとりながら、1足す1の問題を一問間違えるようなものだ。
 つまり、あえて“一級”を捨て“特ニ級”をとらなければならない。
 独立捜査官になるために。
 その目的の一つは報酬、東大先輩はそれだろう。目が¥マークになっている。
 彼の頭の中は、得てもいない報酬の事でいっぱいだろう。
 自分は報酬にはさほど興味はない。
 大事なのは職務変更が無く、自由に現場に立てること。
 景色が変わってきた。中心四区――目的地は目と鼻の先だ。
 胸の鼓動が早くなるのを感じる。
 頭が割られ、肉が抉れ、血が吹き出した死体が三つも転がり部屋中を汚している現場を想像して――自分は興奮を抑えるのがやっとだった。
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