6 :ワールドコード

 ヘビに睨まれたカエルだった。
 狩野に睨まれた樋成は、動く事もできず、視線を狩野から外す事もできない。
 その実、こうしているのが正解とも思えず。
 張り詰めた緊張感は厚みを増していく。
 動いても、動かなくても、待ち受けているだろう暴力。
 そして、時限爆弾のタイマーのように、そのリミットが刻一刻と迫っている気配。
 樋成は咥内が乾ききって、唾を飲み込む事もできなかった。
 そんな樋成の視線の端、狩野の後ろ、奥の部屋に通じているドアがゆっくりと開く。
 中から、ぼんやりとした表情の少女が現れる。
 誰が見ても明らかに寝起きの顔をしているのに、その少女においてはそれすらも絵になっていた。
 狩野から視線を外す事のできなかった先ほどとは別の理由で、樋成の視線は、開ききっていない目をこする少女―真名に惹きつけられる。
 真名は猫の様な手の動きで目を擦りながら、空いた手でミハエルから渡された紙の束を狩野の方に突き出していたが、当の狩野は振り返りもしない。

 「…………狩野さん」

 全く力の入ってない声で真名が呼びかけるが、狩野は視線を樋成から外さない。
 狩野の怒りは収まっておらず、緊張感は未だ膨らみ続けていた。
 膨らみきった風船のように、少しの刺激で、狩野の怒りは炸裂するだろう。
 樋成は爆発寸前の爆弾を前に全身を硬直させていた。
 間違ってはいけない、気を悪くさせてもいけない、刺激を与えてはならない。

 「……………」

 真名はぼんやりと立っていたが、待っていても狩野は振り向かない事がわかると、無言で近づいていった。
 次の瞬間、真名の起こした行動を見て、樋成は心臓が止まるかと思った。実際、数秒止まったかもしれない。樋成は、間違いなく死を覚悟した。

 「……………」

 あろうことか、怒りを体中から発している狩野の肩を、真名は無言のまま、手に持った紙の束でバサバサと叩いた。
 その光景を樋成は唖然と見つめていた。
 樋成の見る限り、狩野の怒りは生半可なものではなく、いかに親しい人間といえど、下手に触れれば逆鱗に触れるであろうことは間違いなかった。                                                 
 顔の横で邪魔臭く音を立てる紙の束を狩野は無視していた。それほどまでに狩野の精神は余裕も隙も無く怒りに支配されていた……はずだった。
 一向に止む気配が無いどころか、次第に激しさを増していく真名のこっち向け攻撃を、狩野は無視し続けることができなかった。顔の横で執拗に紙の束を振られたら相当うざい。
 次第に狩野の眉間に刻まれた皺が深くなっていき―爆発した。

 「あぁ?もう、なんなんだよテメーは!うざってぇな!」

 狩野の怒声にも、真名は微動だにすることなく手に持つ物を差し出す。

 「あ?んだよ……あぁ、なるほどクソガキの作ったレポートか……」

 狩野は渡されたレポートを一瞥して、ぼんやりと突っ立っている真名に再び視線を戻す。

 「つぅか、お前、何、就業中に寝てんの?自由すぎんだろ!首になりてぇのか!」
 「……なにをそんなに怒ってるんですか?」
 「お、ま、え、が、寝てっからだよ!」
 「……それだけ?」
 「うっせぇな!永遠に眠らせんぞ!」

 見透かしたような事を言う真名に、狩野は不愉快そうに吐き捨てた。
 真名に対して怒りを発露させた事で、狩野の怒りはガス抜きされた形になってしまった。
 緊迫感が緊張感へと変わり、部屋に張り詰めていた空気が霧散していく。
 樋成は場の流れが変化した事を見逃さなかった。

 「FUHAHAHAHAHAHAHA!」

 樋成は今を好機と捉え、再び会話の、場の主導権を握るために笑い声を上げた。
 手元のハンカチを握り締め、力強く立ち上がる。

 「いやぁ惜しい!実に惜しかったですなぁ、お嬢さん!もう少し早く、スリーピングからウェィクアップしていれば、この私が持つ超常的な力!プワぁーフェクっリぃィぃィィでンッによって、狩野氏の過去が白日の下に晒されるという、一連の奇跡の目撃者となれたというのに!まったくもって残念極まりありませんなぁHAHAHAHAHAHA」

 大げさな身振り手振りで話しかける樋成を、真名は欠片も興味が無いのか、見ようともせずに狩野に向かって手を差し出して、一言―

 「―トイレに行くんで、ハンカチ返してください」
 「Haぁっ……!」

 真名の発言によって、部屋中に響いていた樋成の笑い声が、驚愕で止まる。
 笑い声に変わって沈黙が部屋を支配する。永遠に思える一瞬の沈黙。
 樋成の頬を汗が伝う。
 樋成は気づいてしまった。己が犯してしまった重大なミスに。
 淡く、青い色のハンカチを掲げて両腕を広げたまま、樋成の体は自由を奪われていた。
 錆びついた機械が立てる音のようにぎこちない動きで、樋成は辛うじて狩野と視線を合わせる。
 樋成の眼の中で、狩野が笑う。

 「あぁ、悪ぃ、そのハンカチ、俺のじゃねぇんだ。返してやってくんねぇ?」

 獲物を捕らえた詐欺師のように狩野は口を醜悪な形に歪めた。
 次にとるべき適切な行動が選べずに立ちすくむ樋成に、真名が無言で近づいてくる。

 「えっと……あの………あ……」

 樋成の傍に来た真名は、可哀想なものを見る目で樋成を見ながら、言葉を選んでいたが、結局、何も言わずに目を伏せて、おずおずと遠慮がちに、力の抜けた樋成の掌からハンカチを取り戻した。
 しているのかしていないのかわからないような、小さ過ぎる会釈を樋成に見せると、真名は静かに部屋を出て行った。


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