2 :ワールドコード

 郵便物が回収される事無く、容量を超え、過剰摂取した食物を無理矢理吐き出すのを我慢しているような郵便受け、それでも零れ落ちたチラシや、元は何が書いてあったかも分からない紙が散らばり、湿り、擦りつけられ汚れた床、狭苦しいその空間に少女は立ち、階上につながる階段を見つめていた。
 塗装の剥げた手すり、お互い半身になってすれ違うのが精一杯の細い階段、繁華街の裏のあやしげな雑居ビルの入り口、少女はいつものようにここを訪れ、そして普段訪れる時間とは違う空間の雰囲気に見入っていた。
 時間は昼過ぎ、一日の大部分が日の届かない雑居ビルの中の短い日照時間。
 細い階段の先の、人が二人立てるかどうかの狭い踊り場。
 その壁にあけられた小さい窓、いまだかつて開けられた事が無いだろうその窓から差し込む光は空気中の埃を輝かせていた。

  「………」

 いつも染み付くように陰り、薄汚れた空間が垣間見せる光に輝く瞬間の爽やかさに、少女は気分が晴れていくような清々しい気持ちを感じていた。

 (いつもこうならいいのにな)

 表情を表に出すのがあまり得意ではない少女は微笑む代わりに目を細める。
 その時、荒々しく扉を閉める音と共に数人の声が降りてくるのが聞こえた。
 彼らは怒っているようで、内容までは聞き取れなくとも、愚痴や文句をお互いに話してるのがわかった。
 自分達の負の感情を撒き散らす声が降りてくるのを聞いて、少女は光に満ちていた空間が、いつもの薄汚れた暗い雑居ビルに戻るのを感じた。

 (いい気分でいたのに…すぐ、これ)

 先ほどとは違い、少女は露骨に落胆を表情に表す。

 「まったく、なんなんだアイツは!何様のつもりだ!」
 「ほんと横柄な奴でしたね、人を小馬鹿にして」
 「くそが、くそ、死ねよあのクソ死ね、くそクソクソ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
 「『本当に超能力があるとでもおもってるのか?』なんて…おもってねーよ!こっちだって真面目に取材する気なんてねーっつーの」

 口々に文句を言いながら降りてきた三人の男たちは階下の少女と目が合うと一様に口をつぐんだ。

 この場にそぐわぬ清楚な少女、近隣でも有名な私立高校の制服に身を包み、手入れの行き届いたセミロングの髪は光の輪をつくり、そして何より美少女だった。
 幼さを残しながらも整った顔立ち、理知的な瞳は見るものを吸い込んでしまうかのようだった。
 Tv関係者である三人の男達は普段、仕事でアイドルや女性タレントを見る機会も多く、それなりに美少女と呼ばれるものを見慣れてはいたが、それでも目を奪われずにはいられなかった。
 少女は自らに注がれる視線を避けるように端に寄って、男達に道を空けた。
 すれ違いざまに男達は少女を横目で眺める。
 ある特殊な力によって他人の感情や雰囲気、視線や表情、その機微を感じやすい少女は男達が通り過ぎる間、体を強張らせてしまう。
 少女に視線を送る男達の目に映るのは、
 好奇、
 疑問、
 憐憫、
 愉悦、
 色欲。

 場違いな少女に対する好奇心、なぜ、少女がこんな雑居ビルにいるのかという疑問、ビルの中に含まれる場所から推測される少女への哀れみ、可哀想な少女に対する優越感、声をかけることも憚られる美しさを持つ少女を舐め回すような視線。
 男達が通り過ぎた後も少女はしばらく動く事が出来なかった。
 遠くで先ほどの男達が

「まったく…金は出すって言ってるのによ」
「しょうがないですよ、きっとイカレてるんでしょう」
「死ね氏ね死ね死ねシネ死ね死ねシネ死ね死ね」
「そういや、さっきの女の子…」

などと愚痴を言い合っている声を聞いて、はじめて少女は緊張を解いた。

 (…ぜんぶ、あいつのせいだ)

 少女はゆっくりと息を吐き出すと、元凶のいる階上に向かって階段を上り始めた。
 そして―
 『狩野ESP研究所』。
 いかにも胡散臭い内容の看板が掲げられたドアの前に少女はたどり着いた。

 (たしかに、こんな所に用事がある人なんて、普通は頭がおかしい人だけだもんね…)

 少女の名前は一条真名《いちじょうまな》、この研究所の助手であり、道具であり―猟犬。


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